左派加速主義のアクチュアリ─来るべき政治主義のために─

はじめに

 現代グローバル資本主義は、その黎明期より遥かに複雑化し、新自由主義的統治からなる規律社会化、貧困、格差、労働問題、金融危機、長期停滞、人為的気候危機、ブルシット・ジョブの増大、自然の搾取から生じるコロナ危機、右派ポピュリズム台頭、左派勢力の陳腐化、レイシズムに陰謀論など様々な巨大な問題を引き起こし、増大させている。
 そのような危機のなか、ポストキャピタリズム、脱成長コミュニズム、エコ社会主義、左派加速主義といった多様な立場が左派思想家から提出された。また、この左派理論の潮流は相互に、大なり小なり緊張関係を構築していることはいうまでもない。
本稿 では、健康体操レベルの社会運動や左派が自身の無力さを隠蔽する「クソつまらない」状態を脱却するために、「新しい左派」の立場からポストモダン以降蓄積された左派理論を概観し、緊迫した世界のなかで今、我々はどのような想像力でもって、資本主義、民主主義の問題に挑むべきであるかを考察したい。

エコ社会主義と脱成長コミュニズム

 近年の気候危機への認識を踏まえ、海外の左派からは、エコロジカルな資本主義批判を軸としたミシェル・レヴィの「エコ社会主義」や斎藤幸平の「脱成長コミュニズム」といったオルタナティヴが構想されている。
 エコ社会主義や脱成長コミュニズムの二つのオルタナティヴ論に付随する資本主義批判は、土地と私的所有の矛盾、労働/自然の搾取の接続、自然という有限なものを用いて、無限の経済成長を求めるという矛盾、エコロジカルな観点からの「価値」から「使用価値」への転換、再生可能エネルギーと限界費用の関係など強度のある議論によって貫かれている。
 しかし、理想、強度のある資本主義批判の展開それ自体は「それは如何にしてなされるのか?」といった素朴な疑問を拭い去ることはできない。よって、本章では、非分を承知の上で、彼らのポスト資本主義論を戦略的、政治的側面からの批判を試みたい。
 エコ社会主義の理論的旗手である、レヴィの立場から見ていくと、レヴィの立場は、今日に気候ケインズ主義と呼ばれているような「市場型エコロジー」にも加速主義者が称揚するような生産力至上主義にも反対する。彼は、生産手段の民主的な管理、計画化による新しい経済モデルを提唱するのである。
 レヴィが主張する民主的かつエコロジカルな計画化というのは、市民自身が生産過程に直接アクセスし、管理するアソシエーションのことである。この生産様式へ転換する過程において、新しい経済セクターが生まれてくるまでの間、経済のいくつかの―化石燃料に依拠していたような―セクターは抑制されるか、異なる形で再構築される。そして、経済の変革は、労働と賃金の平等な条件を備えた完全雇用の積極的な追求をおこなう。
 レヴィのこのような平等主義的なビジョンを打ち出す部分は、資本の論理と明確に矛盾するという点がとりわけ重要である。
 グリーンな投資と技術革新が公共の利益たり得るためには、経済セクターの意思決定権を、現在の支配的な銀行や企業の手から取り上げ、公共の領域に置き、民主主義的管理において資源の配分を決定する点は、「生産手段の私的所有」という資本主義の大原則と矛盾するのである。
また、レヴィが資本主義の根本に対決する点はもう一つ存在する。使用価値と交換価値に奉仕するものでなくすることを目的とした、計画的陳腐化を抑制する計画的なエコ社会主義経済の標榜である。
レヴィは、こうした経済の計画化や生産手段のグローバルな民主的管理によって、貨幣支配が生み出した、消費習慣を超克し、オルタナティヴでエシカルな生活様式を「標榜」する。
一方、斎藤の脱成長コミュニズムを参照すると、生産手段の民主的管理を軸とした上での単なる経済の計画化ではなく、新しい「脱成長」といったビジョンを提出している。
斉藤は、レヴィと同じように、経済成長の神話を孕んだグリーン・ニューディールや気候ケインズ主義による「市場型エコロジー」では、気温上昇1・5℃目標は達成できないとし、グローバル資本主義による外部化作用を一層深刻にするものとして批判する。 では、斎藤の掲げる「脱成長コミュニズム」とは、どのようなビジョンなのだろうか。
斉藤によれば、「脱成長コミュニズム」への移行は、①使用価値経済への移行②労働時間の短縮③画一的分業の廃止④生産過程の民主化⑤エッセンシャル・ワークの重視という5つの柱で構成されている。 そして、これらの柱は、マルクスの思想を基に構成され、資本の論理との対立点をはっきりさせている。
①の使用価値経済への移行から検討する。使用価値経済への「移行」というのは、資本の論理における、価値増殖が優先され、資本は価値生産を継続して行わなければ、延命できない。それゆえに、使用価値という有用性を重視することは当然であろう。
例えば、『限界費用ゼロ社会』や『グローバル・グリーン・ニューディール』の著者、ジェレミー・リフキンは、自然エネルギーが潤沢で、限界費用ゼロへの道—価値から使用価値を切り離すものとして―をより一層加速させるものとして、エネルギーのスマートグリッド化へのインフラ整備による資本主義の超克可能性を肯定的に評価している。
 その一方で、斎藤の場合、このような技術革新による「潤沢さ」に潜む自然への破壊的性格に警笛を鳴らす。エコロジカルな側面において、需要を刺激し、環境は酷く破壊差されてしまうことを強く指摘するために、使用価値経済転換期における民主的管理においてのみ「転換」を期待するために、資本主義に超克可能性を切り詰めてしまうのではなのだろうか。
次に②の労働時間の短縮を検討してみたい。②の「労働時間の削減」使用価値経済への移行とともに、社会全体の総労働時間を減らすこと、資本主義の論理/剰余価値の生産のための雇用創出の力によって生み出されたブルシット・ジョブ「クソつまらない仕事」の削減が盛り込まれている。
ブルシット・ジョブは、マルクスが提唱した資本主義にとって、不可避な「資本の有機的構成の高度化」によって要請されるものであるが、斎藤がいうには生産力はすでに非常に高いという。そして、本来であれば―時間稼ぎでない資本主義—なら、賃金奴隷の状態から解放されているとも述べる。
しかし、斎藤が「労働時間の削減」のために依拠するのは、使用価値経済転換期における民主的管理の代替なのである。加えて、斎藤は、脱成長社会において、使用価値が重視されるが故に「労働からの解放」は不可能と述べるが、転換期において、「ブルシット・ジョブ」に従事する人々が、どのようにして生活が保障されるかということについては口を噤んでしまう。
転換期において、「ブルシット・ジョブ」の概念を唱えるデヴィッド・グレーバーは、UBIという魅力的な解決策を提出している。 UBIについての議論は、日本においても数多く展開されており、財源への問いや新自由主義政権の社秋保証の切り下げに利用されてしまうのではないかといった話は多くある。
グレーバーの主著である『負債論』は―マルクスやスミスとも異なり、文化人類学者兼アナキストの立場から貨幣の出自を記述した―貨幣は市場から生まれたものではなく、国家の暴力性を担保として生まれてきたものであるという。つまり「財源」という思考様式は、中央銀行という準国家機構にきているが故に、BI政策は、左派の立場から普遍的配当として行っていく必要があり、ネグリ=ハート がいうように既存の権力関係の変革と使用価値経済への移行において排出された社会的弱者を救いだすための過渡的政策なのである。
斉藤が近著『人新生の「資本論」』でBIを考慮していないのは、BIが資本主義的消費生活への傾向を強化するものではないかという危惧 からであると考えられるが、そのような危惧と同時に「ポストキャピタリズム」の主要な論客、ポール・メイソンのいうような先進資本主義国本位的な「生の外部性」 を拒否し、コモンー生産手段―を民主的に管理し、外部―グローバル・サウスーの運動を軸に、UBIよりも使用価値の増大を軸にしたユニバーサル・ベーシック・サービス(UBS)を重視するためである。
 UBIよりUBIを重視する点において、レヴィと斎藤の立場は大きく異なっている。レヴィは『エコ社会主義』(2020)において、グローバルな民主的管理を資本主義の外部という観点から参照することはなかったが、斎藤は外部のコモンを重視し、外部から内部へといったアプローチがとられている。
 ③の「画一的な労働の廃止」は使用価値の増大を戦略の軸とした部門と大きく関係する。「疎外」はマルクスの思想にとってより大きなウェイトを占める概念であるが、「画一的な労働の廃止」は「疎外」の克服にとって決定的なものといっていいだろう。
 斎藤はマルクスを引用したうえで、画一的な分業を、単純作業、奴隷的な労働と定義し、これが超克されるためには、テクノロジーを拒否する必要はなく、価値から使用価値生産を重点においた経済へ移行しなければならないという。しかし、この議論は一定の説得力をもつものの不十分であり、テクノロジーと使用価値生産の密接なつながりが損なわれている。
 自然エネルギーによるスマートグリッド化などのテクノロジーは、使用価値生産の合目的的かつ民主的な管理、地域コミュニティの複数の場でつくられた自然エネルギーによる分散型インフラが設置されれば、エネルギーや自らの消費生活に受動的であった消費者が、自らエネルギーを積極的に管理されるように促されることが指摘されているためである。 つまりは、インフラの力、民主的管理の能動性と画一的労働の廃止は地続きになっている。
 次の④の柱は「生産過程の民主化」である。④の柱において斎藤が強調している点は、「民主化」という点である。アソシエーションによる生産過程の共同管理は、強制力のない状態において、全体で意思決定を行う。しかし、「民主的管理」は、外的かつ環境によって強制力のない状態、つまりは、疎外のない状態においてであれば、共同体内における人間が、合理的判断が可能であるという希望的観測に基づいているために、いささか脆弱性を孕み、逆に共同体外部との対立軸を構築してしまう可能性も排除できないのである。
 最後の⑤の柱は、「エッセンシャル・ワーカーの重視」であるが、これは③の「疎外された労働」の克服と延長線上にある議論であるが、エコロジカルな問題系とは一時離れ、エッセンシャル・ワークの重視は、ケア労働の重視であるあることを記述している。
 とりわけ日本において、エッセンシャル・ワークやケア労働の重視という論点は重要である。
 マルクス主義フェミニストのシルヴィア・フェデリーチは、資本主義にとって、本源的蓄積過程における女性の再生産労働の価値の切り下げ(産みの機械化)、女性の身体、能力を国家の管理化に置き、それを経済資源に変容させる家父長制の創出は不可欠であったと論じた。 つまり、ケア労働の重視が意味することは、自然化された家事労働などの社会的従属の変革する地点を重視することに加えて、資本主義下での再生産労働という抑圧の構造そのものを変革する契機にもなり得るということである。
 以上が、斎藤の提唱する脱成長コミュニズムの五本の柱であるが、これまで指摘してきた問題より大きな問いとして、残存する疑問が、価値から使用価値への転換に付随する生産手段の民主的管理が如何にしてなされるのかという点である。斎藤は『人新世の「資本論」』の後半で、一定数広がりをもった海外の自治体規模の社会運動を参照し、それらの要求は市政に届き、政治も社会運動も活性化すると述べる が、これは自治主義の希望的観測と言わざるを得ない。自治体や地域性に基づく社会運動は、組織特有の問題を志向するために閉鎖的であり、生産手段の解放ではなく、その保証の部分に安住してしまう可能性が排除できないのである。
 斎藤の称揚する「ミュニシパリズム」 は、地域コミュニティの存在、インフラ、政治状況、利益、複合的な要素が合致して初めて、可能であるように思えるが、国際農民組織ヴィア・カンペシーナなどの運動のグローバルな連帯の特異な例を参照し、資本主義の構造を揺るがすようなものになることに期待をかけることは楽観論である。加えて、『人新世の「資本論」』において、参照されている岸本聡子『水道、再公営化!』で述べられている「ミュニシパリズム」は、新自由主義的な国家や政策から食料主権やコミュニティを護るために公営化、反緊縮を志向しているために 、本質的には受動的なものであり、金融資本主義やグローバル資本主義の歯車を破壊するほどに革命的とはいえないのである。もちろん斎藤は、「ミュニシパリズム」にすべてをかけているわけではない が、自治主義の論理から抜け出せているとも言い難い。コミュニティや空間、インフラ、政治状況が絶望的な状態である「資本主義リアリズム」には関与せず、コミュニティが立ち上がる要素のある地域にかけることで空間的、政治的なものを排除してはいないだろうか。
 脱成長コミュニズム論の問題点は、民主的管理への過度な傾倒から派生する政治主体の外部化やオートメーション化への消極的な評価に付随する政策規模、制度規模の話がなされていないが故の脆弱性にあった。この弱点を後超えるためには、資本主義の大原則と反する「価値から使用価値への転換」基軸を維持した上での民主的管理への強い傾向を排除し解消しなければならないが、斎藤が、こういった自治主義による民主的管理に傾倒する理由の1つとして政治主義批判が挙げられるのではないだろうか。
 近著『人新世』における政治主義批判には、トップーダウンの政治に任せる、投票さえすればいいといった政治主義や選挙主義の楽観論を批判した。しかし、政治主義批判は、それだけにとどまらない。この批判は、彼のポスト・マルクス主義批判に明確に表れている。
 ポスト・マルクス主義とは、マルクス自身が階級還元主義であり、政治理論について多くを語っていないことを背景に「新しい社会運動」の台頭や非経済的な差異や複数性に象徴される次元、「政治的なもの」 を捉え損なっていると批判した。しかし、斎藤は、そのような政治/経済の二元論は、本質を捉え損なっており、国家によって疎外された社会的共同性を取り戻すことが民主主義にとって不可欠であることを指摘し、ポスト・マルクス主義における「敵対性の政治」が資本主義に付随する不自由・不平等、物神崇拝を受け容れかねないという。 つまり、斎藤のいう政治主義批判は、選挙主義批判のみならず、資本主義によって損なわれている、社会的共同性なき民主主義一般を批判するのである。よって、『人新世』における脱成長戦略が社会的共同性に根差している部分は、彼の政治主義批判にも由来していることが伺える。
 社会的共同性における民主的管理によって、旧来の民主主義を超克しようとする斎藤は、マルクスの『ユダヤ人問題』や『ゴータ綱領批判』を参照し、「経済的なもの」と「政治的なもの」の分離という問題系の背後に潜む、貨幣や資本といった経済形態規定との関連で政治的形態規定を把握し、資本主義内では「形式的民主主義」を権力側が構築しているという。 しかし、資本主義を超克する過渡的形態においては、「形式的民主主義」の枠組みは、資本主義を存立させている諸機関と接続されているが故に、多層的であり、資本主義的統治機構と「形式的民主主義」は包摂されている。そして、形式的民主主義を民主主義であるということが一般の認識となっている現行社会において、ホモ・エコノミクス化した人々が社会的共同性や基盤的コミュニズム から脱成長コミュニズムに向けて動くことが可能であるということは暴力的ともいえるのではないだろうか。
 斎藤のラディカル・デモクラシーへの反論として、ポスト・マルクス主義の論者たちは、資本主義を前提としているために、形式的民主主義に留まる といった指摘は一見に真っ当に思える。ラディカル・デモクラシーが空虚化した熟議民主主義への反論として生まれたことを考慮すれば、想像に容易いだろう。
 しかし、反論の論理である、「政治的なもの」と「経済的なもの」の分離という問題系の背景として、貨幣、所有といった土台としての経済的規定が存在するため、土台である「社会的共同性」の主体から「形式的民主主義」を「内容のある民主主義」としての移行を目指す戦略は、熟議民主主義や闘技民主主義を提唱する理論家が志向した民主主義における「参加のレベル」を見逃してしまいかねない。そして、このような「主体」の民主主義論は、ラディカル・デモクラシーの論客、エルネスト・ラクラウやシャンタル・ムフらが提唱した当のものなのである。
 ラクラウらのラディカル・デモクラシーにおける「敵対」の概念は、政治的アイデンティティが普遍のものではなく、むしろ節合関係や等価性を通じて構築されていることを明らかにしている。 加えて、ラクラウのいう結節点の概念は、「コミュニズム」が結節点として用意される場合、言説における意味の浮遊を食い止め、それを固定するのである。
 あらゆる社会的共同体の連帯は、敵対する諸勢力の存在と両者を隔てる境界の不安定性から生じてくるものであり、自身の政治的アイデンティティから自由ではなく、それらは、政治的プロジェクトの結果である。ラディカル・デモクラシーは、左派が既存の「形式的民主主義」(議会主義)を民主主義であると考える思考様式そのものを問い直し、その地盤―形式民主主義—の影響を及ぼす範囲を設定し、社会的行為者、社会的共同性を顕在化させるものとしても位置付けることを可能にする。
 特に今日の日本で顕著であるが、リベラル・デモクラシーの価値観を前提とする社会において、その制度や「個人の自由」の共通理念に基づいて市民社会の民主主義は存立しており、右派による排外主義などの言説によって、自由民主主義のヘゲモニーが揺らいだ場合、そこで「既存のルールをまもれ」などの言説が無力であるように、本質的に受動的な言説は旧来のリベラル・デモクラシーやリベラル的価値観を復権させることすらままならない。
 現代のリベラリズムの危機と言われているような状況はグローバル資本主義や第三世界の登場、ソ連型唯物論の消滅、社会民主主義的再分配の限界などの外的な要因によって要請されたものであり、もはや後戻りはできないのである。

左派加速主義戦略

 ポスト・マルクス主義の論者は具体的なコミュニズムへの道筋は示さない。ニック・ランドやマーク・フィッシャーなどの旧来の加速主義の論客は、粗雑な資本主義の超克可能性を主張していたが、左派加速主義の理論的旗手であるニック・スルニチェクとアレックス・ウィリアムズのInventing the Future(以下ItF)はポスト・マルクス主義の限界と斎藤、レヴィにかけている部分を超える形で具体的な戦略が提出されている。
 スルニチェクらは、抽象的かつ非線形的なグローバル資本主義に対抗するために、従来の社会運動―素朴政治―を地域性に基づいて組織され、実際の権力メカニズムとつながりが損なわれ、常識化し、即時性に適した形態であると定義し、それは成功する政治プロジェクトの必要な要素であるとも主張した。
 素朴政治は、グローバル資本主義の抽象性、複雑性に対峙することができずに、その水平主義的傾向が、既存の社会システムの超克可能性を切り縮めてしまうのである。では、どうすればいいのだろうか。
素朴政治の再定義を狙ったスルニチェクらは、カウンター・ヘゲモニー戦略を設定する。 カウンター・ヘゲモニー戦略とは、資本主義の長期性、抽象性、複雑性に対応し、支配的な新自由主義の常識を覆し、集合的意志を構築する。
イタリアのマルクス主義者アントニオ・グラムシは、資本主義は、ある特定のグループによる同意の技術に依存していると指摘した。新自由主義の形成過程にも同様のことがいえるだろう。彼らの提案するヘゲモニー・プロジェクトは、1つのグループに特定の世界観を導入し、「常識」を構築する。これらのヘゲモニー戦略的構成要素は、メディア、国家権力、経済主要セクターの管理によってなされるが、 スルニチェクらが、最も問題の中心点として据えているのが、ヘゲモニー・プロジェクトを今日までの左派の失敗を踏まえて、いかに達成するかという箇所である。
再度確認すると、従来の袋小路的かつ閉鎖的な「素朴政治」を脱却するものとしてのカウンター・ヘゲモニー戦略の技術的構成要素は、メディア、国家権力、経済主要セクターの包括的なものである。スルニチェクらは、これらに接近するプロジェクトとして、左派ポピュリズムとその組織化を提案する。
彼らが左派ポピュリズム戦略の集中する点として、UBI(平等主義)、オートメイション化(剰余価値生産の不可能性)、労働時間の短縮(ポスト・ワーク社会)だが、それは、今日、日本でなされているようなBIやオートメイション化の移行における必然性を強調するような話とは全く異なる。これらは、左派側から提出されるプロジェクトとして設定されなければならないということがItFでは度々強調されるのである。
 UBI、オートメイション化、労働時間の短縮といった結節点は、資本主義的欲求から資本主義リアリズムの状況や緊縮神話などを打開するものとして、または、脱炭素社会―インフラ整備とその地域分散性、限界費用―というエコロジカルな視点、女性の解放―普遍的配当―などを包括するものとして設定される。また、これらは地域からグローバルなプロジェクトに形を変えて、適応させることが可能である。例えば、UBIへの要求は、労働の社会的性質―労働倫理など―生活のあらゆる領域までその視点が拡張し、社会的性格をおびるようになるが、 それだけでは不十分である。
 ポスト・ワーク社会という結節点は、広範な物質的利益に基づいているが、今日までに一定程度成功したシリザ、ポデモスなどを参照すると、実際そういった物質的な側面のみで構築されたものではない。むしろ、これらの今日において有望なムーヴメントは、物質的利益に基づいて構築された運動であるばかりではなく、限りなく多層的な人々を動員する政治的ポピュリズムなのである。そして、これらは、名目上の統一性によって、作られ、敵/友の関係構築がなされる。
 通常の民主的状況―自由民主主義+新自由主義の相互循環運動における安定期―では、社会的不満の発露としての地域性に元図板「素朴政治」は、個別の既存の機関内で処理され、既存の思考様式を決定するものとしてのヘゲモニーはさらに強化される。
物質的利益の追求から開かれる「政治的なもの」の出現は、新自由主義ヘゲモニーに絡め取られている民主主義という決定のプロセスを「人民」の下に取り戻すとともに、素朴政治―差異強調性や自由民主主義—から左派ポピュリズムの移行は、ヘゲモニー的視点が肝要なのである。

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